{YouTubeでは、クリエーターが顔を隠した状態で出演する場面が多くなってきているように感じる。YouTubeの成長に伴い、参入者が増えつつあるということだ。
しかし、これから参入しようとする人たちは、それが映像だけに、顔を出すのか出さないのかというところで、やはり、一定の障壁になっているようだ。
顔を隠して映像に出演することは可能だ。例えばゲーム実況というジャンルでは、ゲームのプレイ画面を映像として、背景で実況するというスタイルのクリエイターも多くいる。
ここで、顔出しを嫌う人たちに、よく次のような批判がされるのを耳にする。
「お前のことなんて誰も見ていない。自意識過剰だ」
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無関心さの原因
人は、自分以外のことに関心を持たない。
少々、皮肉った見方かもしれないが、ある意味、現代人の性質を言い当てているようにも思える。
それは、ただ単に「人々は視野が狭い」ということではなく、他人を気にするほどのゆとりを持つことが出来ない結果、自分以外に関心を持つことが出来なくなっている、とは言えないだろうか?
現代人は、多くの「すべきこと」を抱えながら、常に時間に追われて生きている。特に生活が苦しい不況下の日本では。それが、他人への無関心さとなって表れている。
そして、人が他人に無関心であることぐらい誰でも認識している。
顔が見えない視聴者は数字でしかない
では、顔出しをためらう人は、一体、何を心配しているのだろう?
見ず知らずの他人に自分の出演している動画を見られて、笑われるのが恥ずかしいのだろうか? それとも、アンチに付きまとわれて嫌な思いをしたくないから?
そのような心配をしているわけではない。
顔も見えない視聴者に画面の向こうで指をさされて笑われていたとしても、動画投稿者には、単なる「視聴回数1」に過ぎないのだ。
これを恥ずかしいと感じる人は、ほとんどいないだろう。
アンチコメントについても、登録者が少ない段階ではそれほど心配することではない。
特定の視聴者がアンチコメントを残すのは、自分の反対意見を人々に知ってほしいという欲求からだ。誰にも見られない動画にアンチコメントを書き込んでも、誰も見てくれない。
彼らは、大きな魚にくっついているコバンザメのようなものだ。零れ落ちる餌がなければ生息できない。
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現実世界への影響
多分、顔出しを嫌う人たちが最も恐れているのは、知り合いに動画を発見されることだろう。
例えば、副業として動画投稿を始めた場合、本業として勤めている会社が副業を禁止しているというなら、YouTubeの活動が発覚することは避けたい。
例えば、動画内で会社に対する愚痴を話していて、会社の人間が動画を見て「これって、うちの会社のことだよね」となれば、次の日から働きにくくなってしまう。
最近では、くら寿司の厨房で撮影された不適切動画が、瞬く間に拡散されて全国ニュースにもなったが、撮影した若者二人は、身内だけで楽しむための悪ふざけ動画のつもりだったのだ。
自分たちのくだらない悪ふざけなど、誰も気にしないはず・・・だった。
少し違った例だが、知人に住所を教えたら、即座にGoogleのストリートビューで検索されて家の外観をあれこれ批評されたとか、実際に画像に写りこんだ人影からストーカーに家を特定されたという話も聞いたことがある。
仮に、投稿した動画が拡散されなかったとしても、現実世界に影響を与える可能性は、全くゼロではないわけだ。
的外れな批判
「誰も君に関心などない。それは自意識過剰だよ」という批判は、ほとんどの人に当てはまっていない気がする。
それは、自意識の問題ではなく、今暮らしている日常生活に影響があるかどうかという実質的な問題なのだ。「お前の動画つまんねぇよ!」と見知らぬ人間に唾を吐きかけられることを恐れているわけではない。
ユーチューバーのHIKAKIN氏は、野外の動画撮影時にファンに声をかけられることは日常茶飯事である。画面に顔が写る場合は必ずファンに顔出しについて許諾を得ている。そして、行きかう人々の顔が写りこまないようカメラの向きに注意を払う。それが単なるすれ違った歩行者であっても。自分の動画が多くの人に視聴されるため、その影響力を考えてのことだろう。
人は様々な事情を抱えている。その多様性を認めず、安易に「自意識過剰」という一つの言葉で切り捨てることは出来ないはずだ。それこそ、ステレオタイプとは言えないだろうか?
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