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不景気の中で ” 努力 ” という言葉はヤバイという話

今、日本の経済は20年以上続く長期のデフレから脱却できず低迷したままだ。” 失われた30年 ” と呼ばれることもある。要するに不景気が長引いているという話だ。

元々、経済などというものに関心が無かった僕が「日本はずっと不景気だった」という事実を知ったのも、つい最近のことだ。あまりに不景気状態が長すぎたので、それが普通であり、世の中とはそういうものだと思っていた。

日銀支店の発表する景気動向指数とやらが、緩やかに上がっているとか、下がっているとか、横ばいだとか、そういったニュースを耳にしては「ああ、景気は上がってるんだ」「ああ、前回より少し下がってるんだ」という感じで、ぼんやりと聞き流していた。

確かに、ローカルニュースで年単位の長期の景気動向を毎回報道することは無いので気づかなかったのだ。ニュースで ” 上がった ” とか ” 下がった ” とか言っていたあの現象は、低迷し続ける日本の景気の中の些細な ” 誤差 ” でしかなかったことを。

それを知るには、日々の出来事を伝える朝のニュースではなく、もっと後ろに下がってグラフを眺めなければならなかった。朝のニュースだけを見て、景気について知ったつもりになっていたという・・何ともアホな話だ。

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巨大な泡

不景気の中でも特定の分野だけが景気が良いという状態がある。そこだけを見ていると ” 景気はそこそこ良いのかもしれない ” と錯覚してしまう。例えば、近年のYouTube、Twitterでも、時折、インフルエンサーから羽振りのよさそうなツイートが流れてくる。僕が20代の若者なら、こう思ってしまうかもしれない。

「頑張れば自分もこんなふうに成功できるんだ!」

2019年から2020年にかけてYouTubeバブルなるものがあった。最近では ” 仮想通貨バブル ” というのもあった。しかし、それは一部の ” ラッキーセレブ ” (運良く時代の流れに乗って成功を勝ち得た人々)を生み出しただけで、日本経済をけん引するような存在にはならなかった。彼らは日本の景気が悪ければ海外に移住するだけだ。そして、実際に移住している。

デフレだからこそ流行るビジネスがある。例えば、ビットコインバブルがあった時は、ビットコインの話題を取り扱ったメディア記事が乱立していた。

要するに金儲けの匂いを嗅ぎつけてビットコインを始めようとしている貧困層に「超簡単、ビットコインの始め方」といったビギナー向けの記事を連発すれば大量のアクセスを見込めるというわけだ。いかにビットコインが安全で誰でも簡単に儲けられる投資であることを強調しながらアフリエイトへと誘導する。

これと似たケースとしては、ブログコンサル、アフリエイトコンサル、プログラミングコンサルといったいわゆる成功ノウハウ系ビジネスがある。情報商材やオンラインサロンでフォロワーに有料の情報を提供するわけだ。あなたも見たことはあるだろう。Twitterのタイムラインで高額な収益実績や札束の画像を見せて ” 儲かってます感 ” を出してくる怪しげなアカウントを。

格差が広がり、貧困化しつつある今の日本では、喉から手が出るほど金を欲しがっている人々がたくさんいる。売り手としては、情報というコストのかからない商品を売りつけるには丁度良い ” カモ ” である。

YouTubeバブルやインフルエンサービジネスは、ある意味、この停滞した経済の中で困窮する一攫千金を狙う人々にとっては、夢を持つことが出来る唯一の成功ルートのように見えたのかもしれない。

それ故に先の見えない時代に生きる若者たちが「あんな風になりたい」と有名ユーチューバーをフォローし、インフルエンサーの出版物をこぞって買い漁り、オンラインサロンという宗教に入信した。成功者のふりまく金粉にあやかるために。それが、巨大な ” 泡 ” となった。

ある意味、YouTubeバブルとは、デフレと貧困と希望の無い社会がもたらした ” 一時期の幻想 ” だったのかもしれない。

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” 努力 ” がもてはやされる時代

さて、この幻想というのはたちが悪い。なぜなら、人生の全ては自己責任であり、頑張った者だけが報われるといういわゆる ” 自己責任思想 ” を助長するからだ。

頑張った人が幸せになり、頑張らなかったから貧しくなる。何が悪い? そう思う人もいるだろう。その場合、二つのケースについて考えてみてほしい。

あなたが十年勤める会社で一生懸命働いているとする。大きなプロジェクトに携わり、それを成功に導いた。しかし、その実績は個人のものではなく、チームのものであり、延いては会社のものである。一方、あなたが若くして起業した会社が時代の波に乗って成功し、十年後年収が一般的サラリーマンの10倍になったとする。

どちらの人生も、与えられた同じリソースを何らかの活動に注いでいたことには変わりない。しかし、後者の人生は年収が10倍になる。とは言え、前者の人生よりも努力量が10倍だったわけではない。もしかしたら、後者の人生を選んだあなたは言うかもしれない。

「将来のことも考えず、ぼんやり会社で働いている奴が悪い」

ぼんやり? あなたも知っているはずだ。サラリーマンとして働き続けることが、どれだけストレスを伴うか、どれだけ疲れることか。ぼんやりしている時期があったとしても、それは起業家の道を選んだ場合にも言えるのだ。一日は24時間であり、人間一人が出来る努力の量というのは限界がある。

努力量が年収に直結するというのは、あまりにも単純に捉え過ぎた見方だ。この場合、二つの人生に違いをもたらしたのは限られたリソースを何に振り分けたかという点である。

誰もが何かに対して時間を注いでいる。それは仕事かもしれないし、子育てや介護かもしれない。もしくは、病気と闘うことかもしれないし、ボランティア活動かもしれない。努力をしていない人など、どこにいるのか?

一部の成功者をモデルケースにして「あれこそが我々の目指す努力した人の姿だ」と言ってしまうことの危険性とは、そういった生き方だけが ” 頑張った生き方 ” であり、それ以外の生き方は貧しくなっても構わない、という考えを生み出すことだ。

日本は不景気であり、多くの人が困窮している。それは、彼らが ” 努力 ” とやらを怠った結果なのだろうか? ならば、全ての国民は今の仕事を捨てて、インフルエンサーやユーチューバーを目指すべきだろうか? ビットコインに投資するべきだろうか?

今、成功者と呼ばれている人々の生活が、結局、何によって支えられているか? それは、この疲弊した社会であり、低い賃金で働き続ける労働者であり、割に合わない生き方を選択しながらも社会貢献し続ける無名の人々なのだ。

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