「毎日、残業ばかりで嫌になる」とか「仕事が入って休みが潰れた」とぼやくサラリーマン。社会人なら、誰しも、一度は言うセリフだ。ただ、人によっては、そのセリフを不快に感じることがある。
失業中で仕事をせずに家にいる人にとっては、「僕、働いてます。サラリーマンですが何か?」という皮肉に聞こえるらしい。以前、そういったことをTwitterで呟いた人が、複数の人間に叩かれているのを見たことがある。
どうやら、Twitterでは、ぼやくことも出来ないらしい。
人気ユーチューバーが、少々、尖ったことをすれば、必ず賛否両論が起こる。喝さいを送る人もいれば、罵声を浴びせる者もいる。そして、何の害も無いかに思われる動画にすら、必ずバッドボタンを押す人間がいる。
SNSの文化が浸透した世界では、そういった人々の持つ価値観の違いがより際立つようになっている。人々が、好き勝手にバラバラの主張をする時代。メディアが取り上げる「世論」とは幻想なのかもしれない。
スポンサードリンク
Twitterの誤った使い方
先日あった出来事だが、とある有名ユーチューバーを名指しして、動画で喋っている内容に嘘があるという批判ツイートがTwitterに投稿された。どこかの学説を引っ張り出してきて、それを都合よく解釈し、あたかもそれが立証された事実のように語っていると。
すると、そのツイートに多くの返信がついた。その中には、賛同する者がいる一方で、ツイート内容を批判する者もいた。批判の内容は次のようなものだ。
「彼は嘘をついているわけではなく、個人的見解の範囲内で喋っているだけだ。主観で勝手なことを言うな」
「どの動画の、どの部分が嘘なんですか? 具体的な個所を言ってください」
僕はこういった議論を見ると、必ず思うことがある。「その議論、決着がつくのか?」
正直、Twitterの議論で綺麗に終結したというケースを一度も見たことがない。あの議論、結局どうなったの? と言うモヤモヤ感を残して、タイムラインの彼方に消えて無くなるのが落ちだ。
140文字以内の議論の応酬、そして、刻々と流れていくタイムライン、ユーザーの興味は次々へと変わっていく。どう考えてもTwitterは、まともな議論が出来るようなメディアではない。
ほとんどは、ユーザーどうしの自己主張の押しつけにしかなっておらず、実のある議論へと発展することはない。140文字という制限が主張を要約してしまい、余計に誤解されやすいものにしている。Twitterが炎上しやすい媒体だと言われる所以だ。
とある大物インフルエンサーが自身の発言が炎上した際、勝手に炎上しているユーザーらに「君たちは読解力が無い」と批判したが、これはユーザーの読解力の問題ではなく、Twitterという環境が悪いのだ。
それが誤解されるような発言なら、Twitterに投稿せずに、ブログにでも書いておけばいい。
仮に、タイムラインに気に障るツイートが流れてきたからといって、いちいち反応する必要もない。言葉の真意など、140文字で伝わるわけがない。
炎上は、一見すると議論しているように見えるが、そこから「価値」が生まれることは、ほぼ、無い。この意見に反論する者もいるだろうが。
真面目にTwitterをする人々
先ほどの有名ユーチューバー批判に投げられた批判「嘘だと言うなら、具体的個所を示せ」
一見すると、論点を明確にする適切な主張のように聞こえる。しかし、このアプローチは危険だ。
Twitterに投げかけられたユーチューバー批判は、結局、「こいつ何となく胡散臭いよね。エビデンスの解釈も間違ってたし」という単なるその人が感じた印象であり、主観に過ぎない。
僕なら軽く受け流すが、それを( 多分、ユーチューバーのファンだと思うが )「どの動画の、どの部分が?」と追及するわけだ。特定して、どうしようというのだろう?
仮に、特定して「別に嘘なんか言ってないじゃん。あなたの勘違いだ」ということになったからと言って論破したことにはならない。だって、それは単なる ” 全体的印象 ” だから。
そもそもが、そういう論点のツイートではない。反論者は論破したつもりにはなるだろうが。
政治家や芸能人の発言をメディアが都合の良いところだけ切り取ってテレビで流す。誰かの発言の粗を探し、一部の誤りを切り取って「その主張は全て間違いだ」と主張することに、何か違いはあるのだろうか?
また「主観で勝手なことを言うな」「既成事実かのようにデタラメを流すな」という反論についても、Twitterのタイムラインに流れてくる誰かの批判ツイートにどんな信ぴょう性があると言うのだろう?
Twitterとは、その程度のメディアである。そして、ユーザーの多くがそれを理解した上でタイムラインをチェックしている。
かつて、2chという匿名掲示板があったが( 今でもあると思うが )、 そこで芸能人の噂話が上がったとしても「 ああ、2chね 」と言って、軽く受け流されていた。
テレビ局がいちいち、どこかのネット掲示板に書き込まれた噂話をニュースにしたりはしなかった。むしろ、そんな情報を流せばニュース番組の信用を疑われるのが落ちだ。
「仕様」という鎖
Twitterでは、こうした価値観の違いや、視点の違いによって起こる不毛な議論、いや、” 主張の押し付け合い ” が日々生み出されている。それを実現しているのは、140文字制限というTwitter特有の仕様のおかげだ。
140文字制限を超えてツイートをすることは可能だ。実際、僕もツイートを追加して連続投稿していた時期がある。
ただ、投稿してみると分かるが、実にやりにくい仕様になっている。追加されたツイートは順序が逆になったり、折りたたまれてしまったり、ブログのようにスマートな投稿が出来ない。多分、長文ツイートをさせないための仕様だろう。
そして、Twitterには長文投稿を受け入れる文化が無い。フォロワーにとっては、複数に跨って投稿される断片的なツイート群は、タイムラインを占領する目障りな雑音に過ぎない。
何だったら、140文字制限をやめて、40文字制限にしてみたらどうだろう? Twitterは、もっと訳の分からない軽薄なメディアになるだろう。
別々の世界を生きるということ
Twitterは「共感」を生み出すSNSだと言われていた。だが、実際は、人々の間に大きな亀裂があることを表面化させているだけだ。
「インフルエンサーのツイートは、多くのいいねが押されている。それは、共感の証だろう」と誰かが言うかもしれない。
果たして、それは、本当に「共感」によって押されたのだろうか? それは、インフルエンサーの影響力に追従する人々の「思惑」の集積では?
価値観の多様化が進めば、僕たちは、本当の意味で共感出来ることを一つずつ奪われていくのだろう。
そして、そういう時代に生きている。それが良いことなのか、悪いことなのか、今は分からないが。
リツイート数の多さが「共感」を表すとは限らない
Comments are closed, but trackbacks and pingbacks are open.