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リツイート数の多さが「共感」を表すとは限らない

多くのリツイートを得るツイートは何が違うのか? ここで、どこかの大学が実施した研究事例を挙げて、心理学的には・・・というような巷でよく聞く話はやめておこう。

僕は、ここ最近、Twitterを休止している。その理由は、リソースをTwitterに使うのがムダに思えてきたからだ。Twitterのタイムラインをチェックする時間があれば、こうしてブログの記事を書く方が良いと考えている。

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「攻略」を見つけた時が潮時

例えば、途中から、ゲームがとてもつまらなく感じてしまう時がある。僕の場合「シムシティ(2013)」がそうだった。

産業を発展させて納税率を上げていく。まず、最初に原材料産業を発展させて、それから、加工品を作り、さらに高度な製品を作っていく。それを鎖のように繋いでいく。

サプライチェーンの仕組みを知っているユーザーなら、多分、同じ解になるだろう。と言うより、シムシティの開発側が、サプライチェーンの仕組みからシムシティ ( 2013 ) の構想を得たのかもしれないが・・

とにかくその解に従っていけば、自動的に経済成長し、都市が発展していくようにゲームが設計されている。

僕は、それに気づいた時点で資産を全て、オンラインで繋がっている別の都市にプレゼントして、ログアウトした。それ以来、シムシティをプレイすることは無かった。

Twitterという世界の構造を研究していけば、俗にいう「攻略」なるものが発見できるのかもしれない。実際に発見した者もいるだろう。しかし、そのプレイヤーがTwitterを続けているとは限らない。

Twitterを深くまで掘り下げて攻略法を見つけられたのなら、間違いなくTwitterで出来ることの限界点も見えているからだ。

100%リツイートされない条件

Twitterには、リツイートされやすいツイートと、されにくいツイートがあるのは、いちいち心理学など持ち出さなくても、Twitterをある程度続けていれば誰でも分かるようになる。

ちなみに、この記事は100%リツイートされることは無い。その理由は、あなたがこの記事をリツイートしない理由と同じだ。つまり「Twitterに流せるような空気感ではないから」だ。

「空気感」・・・何とも曖昧な理由だが、これはTwitterという世界では、極めて重要な要素である。

例えるなら、次のような状況と同じだ。僕があなたに「君の友達に自分のことを紹介してくれ」と頼んでも、絶対に嫌がるだろう。友達に「こんなのと付き合いがあるの?」と思われたくないから。

僕が、つまらないギャグを連発するとか、どこか挙動不審だとか、変な癖があるとか、いつもシワシワの服を着ている・・

理由は何であれ、一緒にいるところを誰かに見られたくない。付き合いがあることを知られたくないといった「世間体」が、僕を友達に合わせるのか、合わせないかの「決め手」になるわけだ。例え、僕がとてもいい奴だったとしても。

そう。Twitterとは、近所の奥様方の井戸端会議に参加するのと同じ感覚なのだ。ただ、それが広範囲の不特定多数であり、顔が見えないというだけで。

「世間体」という判断基準

世間体 ( インフルエンサー的に言うなら「ブランディング」 ) を気にするというのは器の小さな人間のすること、というイメージがあるが、多分、Twitterユーザーの大半は身に覚えがあるだろう。

とあるツイートをリツイートすべきか、スルーするか判断する時、とあるアカウントをフォローするかしないかを判断する時・・・脳裏に「世間体」の文字が浮かんだはずだ。

Twitterユーザーは、タイムラインに流れてきたツイートを素早く世間体基準で嗅ぎ分け、〇ならば、いいねを押すか、リツイート、もしくはフォローという行動へと移る。Xならばスルーされる。

基準は、あくまで「情報の有用性」ではなく「世間にどう見られるか」である。もちろん、有用であり、世間にも顔の立つツイートなら越したことはないが。

実は、僕も器が小さい人間の一人だ。YouTubeでとあるチャンネルを見ることがある。下世話で低次元だと思いつつ何となく見てしまう。

ただ、チャンネル登録はしていないのだ。自分がこんなレベルの低いチャンネルの一視聴者だということを認めたくないから。

面白いことに、そのチャンネルは登録者数の割に視聴回数が多かったりする。つまり、登録はしないが、わざわざ見に来ている「隠れ視聴者」がいるということだ。

あなたにもあるだろう。公にはしたくないが、こっそりとのぞいてニンマリと楽しむウェブサイトやチャンネルが。

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皆がリツイートしているから大丈夫

さて、「世間体」と言っても漠然とした概念だ。

そもそも、それは個人個人が勝手に頭の中で作り上げているイメージに過ぎないので「世間体とはこういうものだ」という明確な定義は出来ない。ただ、もう少しこの概念について、深く掘り下げてみよう。

タイムラインに一つのツイートが流れてくる。そのツイートは、すでに数千のリツイートが付いているといった状況。ユーザーは、それをどうするか?

まず、こう考える。「どうやら、これをリツイートしても問題は無いようだ。皆がリツイートしてるから」

多くのリツイート数を見れば、それが絶対に「ハズレ」ではないことは一目瞭然だ。それをリツイートしたとしても、まずフォロワーからひんしゅくを買うことも、恥ずかしい思いをすることも無いだろう。

ある意味、リツイート数は、Twitterユーザーの大好きな「実績」のような役割を持つ。後は、ツイート自体がちょっと「有用っぽい情報」なら十分だ。つまり、大した情報でなくてもいいわけだ。

以前、このブログの別の記事がリツイートされたことがあった。滅多に起こらない珍事だ。リツイートしたユーザーはフォロワーも数百人ほどの一般的なアカウントだった。彼は間違いなく「ハズレ」を引いたのだ。

その後、一週間ほどが過ぎ、例のアカウントをチェックしてみると、リツイートはタイムライン上から消え去っていた。「世間体」によって消されたのだ。

コミュニティ色とリスク

再び、タイムラインを見てみよう。新たなツイートが流れてきた。

ツイートにはリンクが貼ってあり、そこへ飛んでみると2017年にハーバード大学が発表した「脳オルガノイド」に関する研究論文の記事があった。「脳オルガノイド」というのは、幹細胞による心臓などの器官を培養する技術で作られた人工脳のことだ。

僕はこの記事をリツイートせずに、スルーした。個人的には、記事はとても面白かった。サイバーパンク的で人類の未来に関わる壮大な科学ネタではあったが、こう考えてしまったのだ。

「もしかしたら、先進的過ぎて受け入れられないのではないか? 人によってはグロいと思うかも・・」

もし、僕が科学者でそういった科学系コミュニティーの中でTwitterを運営しているというなら、リツイートしたかもしれないが、あいにく僕の属しているコミュニティはそうではなかった。そこに流すには「毛色」が違っていたのだ。

仮に流したとして、それに関心を持ってくれるフォロワーもいただろう。しかし、僕はリスクを取らずに冒険するのをやめた。これが記事の内容が有用でもスルーされる理由だ。
 
 
・コミュニティ色に合っていないから

・大事を取ってリスク回避

・尖り過ぎた情報はスルー

エンゲージメントの読み合い

経済学者ケインズが投資家の行動パターンを説明するために紹介した有名な例え話がある。「美人投票行動」だ。

女性を撮った100枚の写真を複数の男性に見せる。各男性は一番美人だと思う女性に一票を投じる。一位になった女性に投票した男性全員に報酬が支払われるというルール。

ケインズはこう説明する。「男性は自分が一番美人だと思う女性に一票入れるのでなく、男性陣の心理を読んで誰もが選びそうな無難な女性に一票投じる」と。つまり、お笑い芸で言えば「お約束」だ。「この展開なら、皆これを期待するよね」というような。

Twitterでも全く同じ現象が起こっている。取り立てて有用な情報に思えなくても、多くのユーザーから反応を得られそうなツイートならば、それをリツイートする。そして、明らかに有用な情報であっても、ユーザーから反応を得られそうにないツイートならスルー。

例えば、とあるツイートに100のリツイートがついたとしよう。しかし、それをリツイートした100人のユーザーは全員、「何となく受けが良さそうだから」という安易な理由でリツイートボタンを押している可能性もある。( 100人のうち誰もツイートの内容に有用性があると思っていないという状況 )

当然、最初にツイートを流した本人にも、事実として有用な情報ではなく、誰にでも当てはまり適当に共感されそうなツイートを流すという心理が働く。

Twitterという世界は、こうしたエンゲージメントを取れるのかどうか、というユーザーたちの読み合いで成立している。その裏で、本当に価値のある有用な情報が、タイムラインの彼方に消え去っていくわけだ。

だから、桁違いの数をリツイートされたツイートは、それだけ有用な情報であることを証明するわけではない。単にそれを見たユーザーに「受けが良さそうに見えた」というだけだ。

多様性の向こう側にある未来

もし、本当に有用な情報を探したければ、Twitterのツイート検索で消え去った過去の履歴から、掘り出すべきなのかもしれない。

先日、僕は、久々にTwitterにアクセスし「アドセンス」というキーワードでツイートを検索した。すると、アドセンス収益が激減したというツイートを見つけ、アナリティクスのキャプチャ画像が貼り付けられていた。それは、悲劇的な状況だった。

そもそも、そのような悲惨なデータを公開することに何のメリットも無いわけだから、嘘をつく必要がない。つまり、そのデータは真実なのだ。真実ほど有用なものはない。因みにそのツイートのリツイート数は一桁だった。

人は現実から目を逸らし、夢だけを見たがることを僕たちは理解している。

リツイート数を稼いだツイートは、厳密には「共感」を集めたのではなく「誰もが共感するだろう」という思惑を集めた結果なのだ。

共感したかどうかはどうでもよく、それを見た各ユーザーが「これは、共感を呼びそうだ」と推測するかどうか、さらに言えば「共感を呼びそうだと推測されそうなツイート」かどうかが重要だ。

人々の価値観は、今後さらに多様化していくだろう。

それは、個人個人に共通する部分が減っていくということだ。残されるのはより浅い表層に薄く引き伸ばされた「ありきたりな価値観」だけ。

つまり、多様化が進めば進むだけ、Twitterは、より軽薄な世界へと変貌していく。そこで反響を得られるツイートが、深みの無い、お決まりのパターンに限定されていくからだ。

すでにその兆候が表れているが・・Twitterの運営者は、それに気づいているのだろうか?

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